欧州中央銀行(ECB)が、次世代ユーロ紙幣の最終候補となる10シリーズを公開しています。
テーマは「European culture(ヨーロッパ文化)」と「Rivers and birds(川と鳥)」の2種類。
現在は9月21日まで一般投票を受け付けており、最終デザインは2026年末ごろに決定する予定です。
目を引くのは候補案そのものだけではありません。
ECBは、1,241件の応募をどう評価し、39シリーズから10シリーズを残したのか、その審査項目や配点まで公開しています。
紙幣のように「美しさ」「機能」「政治性」「アクセシビリティ」を同時に成立させなければならないデザインでは、何が評価されるのでしょうか。
1,241件の応募から、残ったのは10シリーズ
次世代ユーロ紙幣のデザインコンペは2025年7月にスタートしました。
EU全域から1,241件の応募があり、まず25組のデザイナーが第2段階へ進出。最終的に提出されたのは39シリーズで、その中から「ヨーロッパ文化」5案、「川と鳥」5案の計10案が選ばれています。
数字だけ並べても規模が大きいのですが、応募者に求められたのは紙幣1枚のデザインではありません。
€5、€10、€20、€50、€100、€200の6額面を一つのシリーズとして設計する必要があります。
つまり審査対象になるのは、「100ユーロ札だけ格好いいか」ではなく、6枚を並べたときに一貫したデザインシステムとして成立しているかどうかです。
| 選考段階 | 件数 |
|---|---|
| 第1段階への応募 | 1,241件 |
| 第2段階へ進出 | 25組 |
| 最終提出 | 39シリーズ |
| 最終候補 | 10シリーズ |
25組は第2段階へ進む時点でテーマごとに5,000ユーロ、完成案を提出するとさらにテーマごとに1万ユーロが支払われ、最終候補へ選ばれた案には追加で1万ユーロが支払われています。
公共コンペで問題になりやすい「提案制作を無償で大量に要求する」形式ではなく、選考段階から制作費を設定している点も興味深いところです。
テーマは「文化」と「川と鳥」
候補案は自由テーマではありません。
ECBは事前に市民調査や専門家による検討を行い、「ヨーロッパ文化」と「川と鳥」の2テーマを選びました。その後、各額面に使うモチーフまで定めています。テーマ選定前の調査には36万5,000人を超える市民が参加しました。
「ヨーロッパ文化」では、表面に歴史上の人物、裏面に文化が営まれる現代の場所や活動を配置します。
| 額面 | 表面 | 裏面 |
|---|---|---|
| €5 | マリア・カラス | 舞台芸術 |
| €10 | ベートーヴェン | 音楽 |
| €20 | マリ・キュリー | 学校・大学 |
| €50 | セルバンテス | 図書館 |
| €100 | レオナルド・ダ・ヴィンチ | 美術館・展覧会 |
| €200 | ベルタ・フォン・ズットナー | 公共広場 |
「川と鳥」は、5ユーロの山の源流から200ユーロの海まで、額面が上がるにつれて川が下流へ進んでいく構成です。そこに壁這鳥、カワセミ、ハチクイ、コウノトリ、ソリハシセイタカシギ、シロカツオドリが組み合わされます。
6枚を並べたときに時間や空間が進行するため、各紙幣を独立したグラフィックとして作るだけではなく、シリーズ全体に物語を持たせる余地があります。
同じ指定なのに、解釈は大きく違う
「マリ・キュリーを20ユーロ紙幣へ入れる」と指定されれば、デザインの幅は狭くなるように思えます。
最終候補を見ると、むしろ逆です
ある案では歴史的人物の顔を大胆にトリミングし、「目」と「口」を文化における知覚と表現の象徴として扱っています。
別案では手描きの肖像とコラージュを組み合わせ、さらに別の案では現代の人々から顔の特徴を消し、特定の人物ではなく誰もが自分を投影できるようにしています。
「川と鳥」でも方向性は異なります
RB120は手描きのフェルトペンによるパターンとベクターグラフィックを混在させています。RB227は鳥の鳴き声を水平バーへ変換し、飛行速度をスケールとして表示。RB637では、高額紙幣になるほど川が海へ近づく仕組みそのものをシリーズの情報設計にしています。
同じブリーフから作られたものでも、
- 写真・肖像を主役にする
- コラージュで文化の多様性を表す
- インフォグラフィックへ寄せる
- 手描きとベクターを混ぜる
- 6枚を通した物語を優先する
と、解釈の入口は複数あります。
ブリーフが厳しいほど、自由がなくなるとは限りません。 何を変えられないかが明確になることで、残された領域でのデザイン判断が際立つケースもあります。


審査の25%を占めた「創造性・独創性」
ECBは審査基準と配点も公開しています。
まず、セキュリティ要素の配置や必要な表示項目など、紙幣として成立するための必須条件を評価。この部分が全体の40%です。
残り60%は視覚・技術面の評価で、8項目に分かれています。
| 視覚・技術面の評価項目 | 配点 |
|---|---|
| 創造性・独創性 | 25% |
| 美的魅力・視覚品質 | 20% |
| シリーズ全体の調和 | 10% |
| テーマとの一貫性 | 10% |
| EUの象徴・文化表現 | 10% |
| 額面の識別性 | 10% |
| アクセシビリティ | 10% |
| 一般への認知性 | 5% |
単純な「見た目の美しさ」は20%。それ以上の25%が創造性・独創性へ割り当てられています。
一方で、額面を見分けやすいか、アクセシブルか、6枚を並べたときに統一されているかといった項目も無視できません。
公共グラフィックでは、目立つアイデアを出せば終わりではなく、新しさと日常の使いやすさを同時に評価されることが数字として表れています。
「国らしさ」を出しすぎても失格になる
紙幣にはもう一つ特殊な条件があります。
ユーロは一国の通貨ではないため、特定の国を過度に優遇する表現は使えません。
ECBの必須審査項目には、明確に**「国家主義的なシンボルを避けること」**が含まれています。セキュリティ要素や必須表示と並んで審査される条件です。
ヨーロッパ文化を表現しなければならない。しかし、フランスらしさ、ドイツらしさ、イタリアらしさのどれかへ寄りすぎてもいけない。
「文化を感じさせながら、どこか一国のデザインにはしない」という難しいバランスが求められます。
企業のグローバルブランドでも似た問題は起きます。ブランドの出自を残しながら、別の文化圏で意味が偏らないようにする必要があるためです。
アクセシビリティも「後から追加する条件」ではない
ECBは新紙幣について、視覚障害を持つ人を含め、より使いやすいものにすることを目標に掲げています。現在のユーロ紙幣でも、額面によるサイズ差や触覚的な特徴が使われています。
今回のコンペでもアクセシビリティは10%の評価項目です。
アクセシビリティとは、年齢や障害、利用環境などにかかわらず、できるだけ多くの人が情報やサービスを利用できるように設計する考え方です。
Webデザインなら文字サイズやコントラスト、操作方法などが代表例ですが、紙幣では色、サイズ、触覚、額面の識別性などまで関係します。
デザイン完成後に「見えにくい人向けの対応を足す」のではなく、最初から評価項目に組み込まれています。


審査員にはデザイナーだけでなく、神経科学の専門家も
最終候補を選んだのは21人の独立審査員です。
メンバーの専門分野にはグラフィックデザインや紙幣デザインのほか、工業デザイン、建築、コミュニケーション、神経科学なども含まれています。各ユーロ圏加盟国から1人ずつ選ばれました。
公共デザインでは、デザイナー同士が美しさを評価するだけでは足りません。
どう認識されるか、どう区別されるか、社会的な意味をどう受け取られるかまで判断する必要があるため、評価する側にも複数分野の視点が入っています。
また、作品は審査時に匿名化され、審査員が見るボードの並び順も途中で変更。誰の作品なのか、どの案を先に見たのかによる影響を減らすための措置まで取られています。
コンペ自体の「見せ方」も設計されているのは参考になります。
最終候補だからといって、そのまま紙幣になるわけではない
現在公開されている10案は、完成した新ユーロ紙幣ではありません。
一般投票と別途実施される代表者調査の結果を参考に、ECB理事会が2026年末ごろに最終案を選びます。その後、さらにデザインの調整、技術開発、セキュリティ対応、印刷準備が必要になるため、新紙幣が流通するまでには数年かかる予定です。
投票そのものも「最多票を取った案が自動的に採用」という仕組みではありません。
市民の意見は最終判断の重要な材料ですが、審査結果や技術評価と合わせて決定されます。
デザイン投票というと人気投票に見えますが、紙幣では「好きな見た目」と「製造して何年間も使えるデザイン」が一致するとは限りません。
紙幣デザインは、グラフィックデザインの条件がほぼ全部乗っている
次世代ユーロ紙幣のコンペを見ていると、紙幣が特殊なグラフィックであることがよくわかります。
美しくなければならない。
一瞬で額面を判別できなければならない。
シリーズとして統一する必要がある。
偽造されにくくなければならない。
視覚障害のある人にも使いやすくする。
多くの文化を代表しながら、特定国家へ偏らない。
さらに、何年も使われても古びすぎないことまで求められます。
普段の広告やパッケージなら、目的に応じていくつかの条件を優先できます。紙幣では、それらをほぼ同時に解決しなければなりません。
しかも今回、審査上もっとも重く評価された視覚項目は「創造性・独創性」です。
機能を守りながら、前例のないものも求める。
デザイナーにとっては厄介な条件ですが、その矛盾をどう整理するかを見るだけでも、10案を比較する価値があります。
一般投票は2026年9月21日まで。ECBのFAQによると、オンライン投票には年齢・国籍・居住国による制限がなく、インターネット環境があれば参加できます。
完成案を見るだけでなく、「自分ならどのデザインを公共物として選ぶか」という目線で比較すると、普段のデザインコンペとは違った見え方をするはずです。
関連リンク
- European Central Bank|Future banknotes
10種類の候補デザインをまとめて確認できます。
次世代ユーロ紙幣の公式ページを見る - European Central Bank|デザイン候補公開・一般投票開始のプレスリリース
ECBの発表を見る
掲載画像について
- 本記事に掲載している新ユーロ紙幣の画像は、欧州中央銀行(European Central Bank/ECB)が公開している将来のユーロ紙幣のデザイン候補です。現在発行されている紙幣、および採用が決定した最終デザインではありません。
- 画像はECBが定める利用条件に基づき、情報提供・編集・報道を目的として掲載しています。デザイン候補の画像は改変せず、ECBを出典として明記しています。
- 本記事はECBおよびユーロシステムによる承認、提携、後援を受けたものではありません。