Dictionary of the Illegible

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「読めない文字」はなぜ伝わるのか?タイポグラフィの常識を問い直す『Dictionary of the Illegible』

文字は読めなければ意味がないのでしょうか。メタルバンドの判読不能なロゴ、漫画の吹き出しに並ぶ記号、文字のようで文字ではない奇妙な筆跡。こうした表現を400例以上集めた書籍『Dictionary of the Illegible』が、タイポグラフィにおける「読みやすさ」の常識に疑問を投げかけています。

海外デザインメディア『It's Nice That』が2026年10月19日に公開したインタビューでは、編者のLaurenz Brunner(ローレンツ・ブルンナー)が、約10年にわたる研究の背景を語っています。その内容から見えてくるのは、文字を読ませないことで成立するコミュニケーションの面白さです。

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読めない文字を10年間集め続けたデザイナー

『Dictionary of the Illegible』は、スイスのデザイナーLaurenz Brunnerが編集し、タイポグラフィを中心とした出版・研究活動を行うSource Typeから刊行された書籍です。

480ページに及ぶ本書には、現代アート、音楽、漫画、SF、建築、政治、テクノロジーなど、さまざまな分野で生み出されてきた400例以上の「読めない表現」が収録されています。

Brunnerは、整然としたグリッドや明快なサインシステムに囲まれたスイスで育ちました。スイスのグラフィックデザインといえば、合理的なレイアウトや優れた可読性を特徴とする「スイス・スタイル」が世界的に知られています。

しかし、彼が興味を持ったのは、そうした秩序から外れた文字でした。

アンダーグラウンドな雑誌に掲載された粗いタイポグラフィ、街の壁に書かれた落書き、複雑に絡み合ったメタルバンドのロゴ。規則正しく、美しく整えられた文字とは違うものに惹かれ、さまざまな資料を集め始めたといいます。

2016年にはロサンゼルスのArtCenterで研究の初期成果を展示。その後も収集と編集を続け、約10年を経て一冊の書籍にまとめました。

興味深いのは、扱う資料の幅広さです

16世紀のアルブレヒト・デューラーによる版画と、現代のアニメーション作品。古い記号体系と、音楽シーンで使われるロゴ。一見すると何の関係もないものを、文字と意味の関係から並べ直しています。

本のタイトルに「Dictionary(辞典)」という言葉を選んでいる点にも、遊び心があります。

本来、辞典は言葉の意味を明確にするためのものです。それなのに収録されているのは、意味が定まらないものや、そもそも読むことを想定していない文字表現。秩序立てて分類するほど、文字というものの曖昧さが見えてくる構成です。

漫画の「#%&!」は、読めないのに意味が伝わる

本書で扱われている例のひとつが、漫画で使われる「Grawlix(グローリクス)」です。

たとえば、登場人物が激怒している場面の吹き出しに「#%&*!」と書かれていたとします。その記号列には、辞書で調べられるような意味はありません。それでも読者は、登場人物が汚い言葉を吐いているのだろうと理解できます。

グローリクスは、漫画の中で悪態や罵倒を記号によって表す手法を指す言葉です。漫画家のMort Walkerによって1960年代に広まり、漫画特有の表現として定着してきました。

もちろん、記号を並べれば何でも悪態になるわけではありません。吹き出しの形、登場人物の表情、直前の会話、その作品が持つ表現のルール。読者はこうした情報を組み合わせながら、そこに書かれていない言葉を読み取っています。

考えてみれば、漫画には同じような仕組みがいくつもあります。

  • 誰かが突然怒鳴った場面で、セリフの文字が太く大きくなる
  • ショックを受けた人物の背後に、意味を持たないギザギザの線が描かれる
  • 言葉を失った瞬間を、吹き出しの中の「……」や空白で表す

情報を減らしているのに、登場人物の感情は鮮明になることがあります。

文字によるコミュニケーションは、すべての単語を正確に伝えることだけで成立しているわけではないのでしょう。

メタルバンドのロゴは、なぜあんなにも読みにくいのか

ブラックメタルやデスメタルのバンドロゴを見たことがあるでしょうか。

枝分かれするように伸びた線、鋭利な装飾、左右対称に絡み合う文字。初めて見た人には、バンド名どころか、どこからどこまでが一文字なのかもわからないことがあります。

一般的なロゴデザインの基準で考えれば、問題が多そうです

  • 遠くから読めない
  • 縮小すると文字が潰れる
  • 初めて見る人が名前を覚えにくい

しかし、こうしたロゴが何十年にもわたって音楽シーンに根付いているのは、単に読みやすさを無視しているからではありません。その造形自体が、音楽のジャンルや文化的な背景を伝えているからです。

不穏さ、攻撃性、暗さ、神秘性。文字が判読できなくても、どんな音楽が流れてきそうなのかは想像できます。さらに、そのジャンルに親しんでいる人であれば、初見では判読できないロゴを識別できることがあります。

ここで文字は、情報を伝えるだけでなく、文化的な帰属意識を生む役割も担っています。

誰にでも理解できることが必ずしも正解ではなく、特定の文化を共有する人に伝わることが、デザインの目的になっているわけです

ただし、そこには排他的な性質もあります。詳しい人には魅力的でも、初めて接する人には近寄りがたい。文化を象徴するデザインは、同時にその文化への入口を狭めることもあります。

Brunnerが関心を寄せているのも、読みにくさが生み出すこうした複雑な関係です。

文字のように見えるのに、読むべき内容が存在しない

本書に関連する表現として、「Asemic Writing(アセミック・ライティング)」があります。

これは、文字や筆記のような外観を持ちながら、特定の言語的な意味を持たない表現です。

たとえば、誰かの手書きメモのように見える線が、紙の上に何行も並んでいる。しかし、よく見ると既知の文字体系には当てはまらず、文章として読むことはできません。何かが書かれているように見えるのに、解読すべき文章が存在しないのです。

それでも、筆跡から何らかの感情を読み取ることはできます。

細かく繊細な線から神経質さを感じたり、勢いよく走る線から興奮や怒りを想像したり。文字を理解する以前に、人間はその形やリズムから印象を受け取っています。

この考え方は、抽象画にも通じるものがあります

抽象画を見た人は、必ずしも何が描かれているのかを特定する必要はありません。色や形、配置から受け取る感覚そのものを楽しめます。

文字も同じように扱えるとしたら、タイポグラフィの表現範囲はもっと広がるはずです。

特に日本語では、漢字・ひらがな・カタカナが混在するため、文字が持つ造形的な印象も多彩です。漢字の密度、ひらがなの曲線、カタカナの鋭さ。それぞれの特徴を抽象的なグラフィックとして扱うだけでも、文章を読むこととは異なる表現が成立します。

日本の漫画や装丁にもある「意味より先に形が伝わる」デザイン

読めない文字の研究は、海外の実験的なグラフィックデザインに限った話ではありません。

日本の漫画を考えると、文字が言語と絵の中間に置かれる場面は日常的に見られます。

たとえば「ドン」という効果音。

普通のフォントで小さく書かれた「ドン」と、画面を覆い尽くすほど巨大で、荒々しい筆致の「ドン」では、同じ二文字でも受ける印象が変わります。

読者は文字の意味だけでなく、大きさや太さ、傾き、描線の荒さから音の迫力を感じ取っています。さらに表現が激しくなると、文字の輪郭は崩れ、画面の一部と一体化します。文字としての判読性は下がっても、演出としての存在感は強まることがあります。

同人誌や小説の装丁でも、似た考え方は応用できます。

たとえば、作品の世界観に合わせてタイトルの一部を崩したり、文字を重ねたり、かすれた印刷表現を加えたりする場合です。ただ美しく整ったタイトルよりも、作品の不穏さや切なさ、荒廃した世界を感じさせる文字のほうが適していることもあるでしょう。

ただし、漫画の効果音と書籍のタイトルでは、文字に求められる仕事が違います。

効果音は、読めなくても絵の勢いを伝えられれば成立する場合があります。一方、書籍のタイトルには、作品を識別する役割もあります。

SNSで見かけた表紙のタイトルが読めず、あとから検索できなかった。そんな状態になってしまえば、表現として魅力的でも販売上は不利です。

文字を崩すこと自体を目的にするのではなく、どこまで読ませる必要があるのかを考える。その判断もデザインの一部です。

デザイナーが考えたいのは「何を読ませるか」だけではない

ここまでの事例を整理すると、文字によるコミュニケーションには、少なくとも三つの役割があると考えられます。

役割伝えるもの具体例
情報の伝達名前
文章
具体的な内容
書籍タイトル
案内表示
本文
感覚の伝達雰囲気
感情
緊張感
漫画の効果音
実験的なタイポグラフィ
文化の共有所属意識
暗黙のルール
共通認識
音楽ジャンル特有のロゴ
コミュニティ内の記号

この三つは、ひとつのデザインの中で共存できます。

たとえば音楽イベントのポスターなら、アーティストのロゴは世界観を優先し、日時や会場情報は読みやすく配置する。作品の雰囲気を伝える文字と、来場者が必要とする文字で、設計方針を変えるわけです。

この分担は、装丁やパッケージデザインでも使えます

タイトルは作品の世界観を重視し、著者名や仕様、購入に必要な情報は明瞭にする。すべての文字を同じように扱う必要はありません。

逆に、文字の役割を整理しないまま装飾だけを加えると、何を伝えたいのかわからないデザインになりやすくなります。

読みにくいデザインが優れているわけではありません。読みにくくする理由があるかどうかが重要です。

AIが文字を読む時代に、判読不能な表現はどう変わるのか

Brunnerの研究には、AIやアルゴリズムによる文字認識という現代的な論点も含まれています。

画像に書かれた文字を読み取るOCR(光学文字認識)や、文章を分類する機械学習技術が普及したことで、かつて人間だけが解読していた視覚情報も、自動的に処理されるようになりました。

その一方で、SNS上では特定の単語を伏せ字にしたり、絵文字や別の表記に置き換えたりする表現が使われています。

Brunnerは、こうした行為を、監視や自動的な分類に対して人間が表現を調整する例として取り上げています。

ただし、伏せ字や絵文字を使えばAIの認識を確実に回避できる、という話ではありません。機械による認識性能は変化し続けており、文脈から意味を推定する技術も発達しています。

この話題で面白いのは、文字を読む主体が人間だけではなくなっていることです。

これまでデザイナーが主に考えてきたのは、人が読みやすいか、印象に残るか、意図した感情が伝わるかという問題でした。

今後は、機械がどう認識するかという視点も加わります。人には何となく伝わるのに、機械には意味を確定しにくい表現。あるいは、人間には解読しづらいのに、機械には容易に分類できる文字。

文字の「読める・読めない」は、見る相手によっても変わる性質を持ち始めています。

読めないデザインとアクセシビリティは両立できるか

一方で、判読不能な文字表現を肯定的に捉えるとき、忘れてはいけない問題があります。

それがアクセシビリティです。Webアクセシビリティの国際的なガイドライン「WCAG 2.2」では、利用者が文字の大きさや色などを変更できるよう、情報を文字画像ではなくテキストとして提供することを原則としています。

文字を画像化してしまうと、拡大や読み上げなど、利用者が必要とする操作を妨げる場合があるためです。

ただし、ロゴタイプや書体見本など、特定の見た目そのものが情報として重要な場合には例外が認められています

この考え方は、実験的なタイポグラフィとも矛盾しません。

たとえば、読めない文字を用いたポスターを制作しながら、Web上には検索可能なイベント名や日時をテキストで掲載する。芸術的なタイトルロゴを採用しつつ、作品の正式名称を別の場所に記載する。

表現を制限するのではなく、必要な情報を別の方法でも届ける設計です。

読めない文字には、見る人を立ち止まらせ、解釈する時間を生み出す魅力があります。しかし、必要な情報にアクセスできない人を生み出してしまうなら、その読みにくさが本当に必要なのかは考えたいところです。

表現としての難解さと、情報へのアクセスのしづらさは、区別して設計する必要があります。

文字はいつから、素早く理解するためだけのものになったのか

スマートフォンで情報を見る時間が増え、デザインには以前にも増して即時性が求められています。

  • 一瞬で内容が伝わる見出し
  • 縮小しても判読できるロゴ
  • 迷わず操作できるインターフェース

いずれも大切な要素です。しかし、すべての文字表現に同じ基準を当てはめる必要があるのでしょうか。

小説の装丁を眺める時間と、駅の案内表示を確認する時間では、求める体験が違います。美術館のポスターなら、意味がわからず足を止めること自体が鑑賞の入口になるかもしれません。

『Dictionary of the Illegible』が取り上げる表現は、文字が情報を運ぶ道具であると同時に、視覚的な作品にもなり得ることを思い出させてくれます。

  • 読むために近づくのか
  • 眺めるために立ち止まるのか
  • あるいは、意味を知っている人だけが理解するのか

文字の役割をその都度選べることは、デザイナーにとって大きな自由です。

読めない文字を研究することは、読みやすさを否定することではありません。文字が人に何を伝えられるのか、その可能性を改めて考えることなのだと思います。

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