普段何気なく使っているお札を、グラフィックデザインとしてじっくり見たことはあるでしょうか。
肖像、文字、数字、細かな模様、余白。さらに紙そのものへ施された「すかし」や、触るとわかるインキの盛り上がりまで、日本のお札には視覚だけでは完結しないデザインが詰め込まれています。
しかも、見た目を整えるだけでは成立しません。誰でも券種を識別でき、大量に製造でき、長く使えて、簡単には複製できないことまで求められます。
お札はどこで、どうやって作られている?

Wodicka/Ullstein Bild Via Getty Images
日本のお札である「日本銀行券」は、国立印刷局で製造されています。
国立印刷局では印刷だけでなく、お札に使う用紙の製造から行っています。完成したお札は日本銀行へ納入され、金融機関などを通じて私たちの手元へ届きます。
製造量は年間約30億枚。これだけの枚数を作りながら、どのお札も同じ品質を保たなければなりません。
さらに
- ATMや自動販売機などの機械が正しく読み取れること
- 日常的に折ったり財布へ入れたりしても使い続けられる耐久性
- 偽造の難しさ
なども必要です。
一般的な印刷物より、求められる条件が多い印刷物といえます
デザインの視点で見ると面白いのは、これらの条件を満たすために「絵」「文字」「紙」「印刷」「加工」が別々に存在しているわけではないことです。
すべてが一枚のお札の中で役割を持っています。
お札の「ざらざら」は凹版印刷で作られている

お札を指で触ってみると、肖像や額面数字などの一部に独特のざらつきがあります。
これは凹版印刷によるものです。
凹版印刷(おうはんいんさつ)は、版のへこんだ部分へインキを入れ、強い圧力をかけて紙へ転写する印刷方式です。 お札ではインキが紙の表面に盛り上がるため、印刷した部分に触感が生まれます。
現在のお札では、額面数字などへ特にインキを高く盛り上げる「深凹版印刷」も使われています。
つまり、お札では色や形だけでなく、触った感覚までデザインされています。
これは単なる高級感の演出ではありません。視覚に障害がある人がお札を識別するときにも、触覚を利用できるようになっています。
Webデザインではアクセシビリティを考えるとき、文字サイズ、色のコントラスト、キーボード操作、スクリーンリーダーなどを考えます。
紙のデザインなら、触覚そのものを情報へ変えることもできます。
特殊印刷を「豪華にするための加工」とだけ考えず、加工そのものへ役割を持たせる。この考え方は、パッケージや冊子、カードなどにも応用できます。
1ミリの中に10本以上の線を彫る「凹版彫刻」
お札を拡大すると、肖像などが大量の細い線によって表現されていることがわかります。
その原版制作に使われる技術のひとつが「直刻凹版」です。
直刻凹版(ちょっこくおうはん)は、金属板へ直接絵柄を彫刻して原版を作る技法です。
国立印刷局の工芸官には、1ミリメートルの間へ10本以上の線を彫刻できる技術が求められます。
Illustratorで線幅を指定するのとは違い、一本一本の線そのものが絵を構成します。
- 線の間隔を変える
- 方向を変える
- 密度を変える
それによって明るさや暗さ、立体感、質感が生まれます。
イラストレーターなら、クロスハッチングなど線によって陰影を作る表現と重なる部分を感じるかもしれません。
クロスハッチングは、複数方向の線を重ね、その密度によって陰影や立体感を表現する描画方法です。 ペン画や版画などでも使われます。
ただし、お札の場合は美術表現だけが目的ではありません。
簡単には再現できない細密な線を使うこと自体が、偽造防止にもつながっています。
一本の線が「絵」と「セキュリティ」の両方を担当しているわけです。
お札の「すかし」は印刷されているわけではない

お札を光へかざすと、肖像などが浮かび上がります。
これが「すき入れ」です。
一般には「すかし」と呼ばれることもあります
面白いのは、白やグレーのインキで絵を印刷しているわけではないことです。
すき入れは、紙そのものの厚さを部分的に変え、光の透過量の違いによって絵柄を見せる技術です。
日本のお札では「白すかし」と「黒すかし」を組み合わせ、明暗の差によって細かな濃淡まで表現しています。
つまり、印刷される前から紙そのものが情報を持っています。
これは自主制作をしている人にも面白い考え方です
同人誌やZINEを作るとき、紙を「デザインを載せるための白い土台」と考えてしまうことがあります。
しかし紙には、
- 厚さ
- 色
- 透け方
- 光沢
- 手触り
- 繊維
- 硬さ
があります。
同じデザインデータを印刷しても、紙が変われば完成物の印象は変わります。
お札ほど高度なすき入れを自主制作へ取り入れるのは簡単ではありませんが、「紙の上をデザインする」のではなく「紙まで含めてデザインする」という考え方はそのまま使えます。
背景に見える細かな模様「彩紋」とは?
お札をさらに近くで見ると、背景に細い線が複雑に組み合わされた模様があります。
こうした模様で使われるのが「彩紋」です。
彩紋(さいもん)は、幾何学的な細線を規則的に組み合わせて作る複雑な模様です。 紙幣や証券などで使われ、装飾として画面を構成すると同時に、偽造を難しくする役割も持っています。
遠くから見るとひとつの面や模様に見える。しかし拡大すると一本一本の線が見えてくる。
グラフィックデザイナーなら、Illustratorでパスを複製したり、回転させたり、規則的なパターンを作った経験があるかもしれません。
彩紋を見るときも、「複雑な柄」として見るだけでなく、単純な線をどう反復・変形すると複雑な画面へ変わるのかという視点で観察すると面白くなります。
装飾と機能を同じ要素で成立させているところもポイントです。
マイクロ文字は「読めないほど小さい」ことに意味がある

お札には、肉眼では気づきにくいほど細かな文字も印刷されています。
「マイクロ文字」です。
マイクロ文字は、コピー機や一般的なプリンターでは再現しにくい微細な文字を印刷する偽造防止技術です。
普通のエディトリアルデザインなら、文字は「読めること」が基本です。
ところがお札では、文字を極端に微細化することで別の機能が生まれます。
文章を伝えるための文字だけではなく、「精密に印刷できていることを証明する文字」です。
タイポグラフィを情報伝達だけで考えると出てこない使い方です
文字には読ませる以外の役割も持たせられることがわかります。
特殊発光インキは「普段見えない情報」を作る
お札には、紫外線を当てることで発光する特殊発光インキも使われています。
通常の環境では見えていなかった情報が、特定の条件でだけ現れます。
これもデザインとして見ると面白い仕組みです
一般的な印刷物では「すべての情報をどう見せるか」を考えます。
特殊インキを使えば、逆に「普段は見せない」という状態をデザインできます。
- ブラックライトを当てたときだけ現れる
- 角度を変えたときだけ見える
- 光を透過させたときだけ見える
印刷物は必ずしも、正面から普通の照明で見た状態だけをデザインするものではありません。
同人誌、ZINE、招待状、パッケージなどでも、「見る条件によって変わる」という発想は作品づくりへ応用できます。
3Dホログラムでは肖像が回転して見える
2024年に発行が始まった現在のお札では、新たな偽造防止技術として3Dホログラムも採用されています。
一万円札と五千円札では、お札を傾けると肖像が立体的に回転して見えます。
平面に印刷された静止画ではありません。見る角度という条件を利用して、表示される情報を変化させています。
グラフィックデザインというと、完成した一画面を設計するイメージがあります。
しかし紙でも、
- 触る
- 傾ける
- 透かす
- 光を当てる
- 近づく
といった行動によって情報を変えることができます。
紙幣は、静止した一枚の紙でありながら、見る人の行動を利用したインタラクティブな印刷物とも考えられます。
お札にはなぜこんなに多くの技術が使われている?
偽造防止だけが目的なら、とても高度な技術をひとつ搭載すればいいようにも思えます。
しかし、お札には凹版印刷、すき入れ、彩紋、マイクロ文字、特殊発光インキ、ホログラムなど、性質の異なる技術が重ねられています。
ひとつの技術だけを突破すれば複製できる状態にしないためです。
これはデザインの情報設計として見ても興味深いところです。
- 触ればわかる
- 光へかざせばわかる
- 拡大すればわかる
- 紫外線を当てればわかる
- 傾ければわかる
同じ「これは本物のお札である」という情報を、異なる方法で何度も確認できるようになっています。
ひとつの表現へすべてを背負わせるのではなく、複数の方法で同じ目的を支える。
WebのUIやパッケージなど、紙幣とはまったく違うデザインでも参考になる考え方です。
お札の肖像は「上手い絵」だけでは成立しない
紙幣の肖像を見るときは、人物がどれだけ写実的に描かれているかだけでなく、線の使い方にも注目してみてください。
一般的なイラストなら、最終的に画面で美しく見えれば成立します。
紙幣の場合は、それを印刷できること、量産できること、細部まで安定して再現できること、そして偽造しにくいことまで必要です。
原画の情報をすべてそのまま残せばいいわけではありません。
- 何を線として残すのか
- どこへ線を集中させるのか
- どこを省略するのか
- どこまで細くするのか
完成物の条件から逆算して絵を作る必要があります。
これは同人誌や商業印刷でも同じです
ディスプレイ上で美しいデータが、そのまま印刷物として美しいとは限りません。
最終的にどの媒体へ出力されるのかを考えながら制作する。
紙幣は、その考え方を極端な精度まで突き詰めた印刷物でもあります。
デザイナーなら一度、お札を拡大して見てみたい
ここまで読んだら、財布に入っているお札を一枚取り出してみてください。
普段なら額面数字と肖像くらいしか意識しないかもしれません。
今度はもっと近くから見ます。
- 肖像を作っている線
- 背景の細かな模様
- 文字の大きさ
- 余白
- 触ったときの盛り上がり
- 光へかざしたときのすかし
- 傾けたときのホログラム
普段使っている一枚の紙の中に、グラフィックデザイン、イラストレーション、タイポグラフィ、製紙、印刷、特殊加工、アクセシビリティ、セキュリティが同居しています。
美術館へ行かなくても、優れた印刷物は財布の中にあります。
ポスターや書籍、パッケージの事例を見るのと同じように、お札もデザイン資料として観察してみると、紙と印刷を見る目が少し変わるかもしれません。