シンガポールの地下鉄では、プロが制作した美しい案内表示の隣に、駅員がWordやPowerPointなどで作ったような紙のポスターが貼られています。
統一感のないフォント、派手な色、必要以上に大きな文字。デザイナーなら思わず直したくなる光景ですが、これらの手製サインは、公式の案内表示だけでは解決できなかった問題を補っています。
海外デザインメディア『It's Nice That』が2026年10月19日に掲載したコラムでは、こうした紙の案内表示を通して、優れたデザインとは何かを問い直しています。
世界有数の地下鉄に、手作りポスターがあふれている

シンガポールの地下鉄「MRT(Mass Rapid Transit)」は、国内の主要地域を結ぶ交通機関です。駅には統一された案内サインが設置され、路線図や出口番号、乗り換え案内などが整理されています。プロのデザイナーが関わったサインシステムは、交通機関全体のブランドイメージにも貢献してきました。
ところが、実際の駅構内を歩くと、公式サインとは雰囲気の違う紙の案内表示が目に入ります。
エスカレーターの脇、改札の手前、長い通路の途中。A4用紙に大きな文字を印刷したものが、スタンドに差し込まれていたり、壁に貼られていたりします。
書体も色も統一されておらず、文字が紙いっぱいに詰め込まれているものもあります。赤い文字に下線を引き、さらに太字で強調している例も珍しくありません。
制作しているのは、主に鉄道の運営を担当する現場の職員です。デザインの専門家が制作した公式サインがあるにもかかわらず、なぜ別の案内表示を作る必要があるのでしょうか。
手製サインが増えるのは、公式サインだけでは足りないから

シンガポールでは、鉄道網の拡張に伴って駅の構造が複雑になっています。
『It's Nice That』の取材では、地下43メートルに位置するBencoolen駅の例が取り上げられています。この駅では、ホームから出口まで移動する際に、複数のエスカレーターを乗り継がなければなりません。利用者にとっては、正しい方向に進んでいるのか不安になりやすい構造です。
そこで現場の職員は、エスカレーターの途中などに案内表示を追加しています。
別のStevens駅では、乗り換えの際に誤って改札の外へ出てしまう利用者がいるため、改札を通らないよう注意を促す紙のサインが設置されています
こうした問題は、出口番号や路線名を示した公式サインがあっても、必ずしも解決できません。駅の構造を理解している人と、初めて利用する人では、必要な情報が違うからです。
現場の職員は、利用者から繰り返し同じ質問を受けたり、同じ場所で迷う人を見かけたりするうちに、案内を追加する必要性に気づきます。手製サインは、その問題に対して最も手軽に実行できる解決策だったのでしょう。
案内表示を刷新しても、紙のポスターはなくならなかった


シンガポールのMRTでは、案内表示の改善が長年進められてきました。2001年には公式サインシステムが刷新され、その後も路線の拡張に合わせた改良が行われています。
2015年には、デザインを学んでいたSamuel Limが、増え続ける紙の案内表示に着目しました。彼は既存のサインシステムでは鉄道網の複雑さに対応しきれなくなっていると考え、卒業制作として新しい案内表示を提案しました。
この提案がきっかけとなり、MRTの新しいウェイファインディングシステムの開発を担当することになります。
ウェイファインディングとは、人が目的地まで迷わず移動できるようにするための案内計画です。看板だけでなく、地図や色分け、情報の配置なども含まれます。
新しい案内システムは2020年に公開されました。それでも、2026年時点で紙の案内表示は残っています。新しいシステムがすべての路線に導入されているわけではないことに加え、どれだけ整理された案内計画でも、現場で起こるすべての問題を事前に予測することは難しいためです。
Samuel Lim自身も、緊急時や特殊な状況では紙の案内が役立つことを認めています
一方で、手製サインへの依存が進みすぎると、利用者が公式サインの読み方を覚えにくくなり、案内表示全体の統一性も失われてしまいます。紙のポスターをなくせば解決するわけでも、自由に増やし続ければいいわけでもない。問題は思った以上に複雑です。
見た目は不格好でも、地元の人にしか作れない案内がある

元記事で興味深いのが、Boon Keng駅の案内表示です。
この駅には、周辺の施設や店舗を、さまざまな色と書体で示した手製サインがあります。
一般的な案内表示として見れば、情報の優先順位がわかりにくく、統一感も不足しています。ところが、内容を詳しく見ると、公式の案内図には記載されていない地域の目印や、地元でよく使われるバス路線まで載っています。
その土地をよく知る職員だからこそ、利用者が何を目印にしているのか理解できているのでしょう
たとえば、初めて訪れた街で「東口から徒歩5分」と案内されても、東口を出たあとに迷ってしまうことがあります。しかし、「スーパーの横を通って、郵便局の手前を曲がる」と教えてもらえれば、たどり着けるかもしれません。
公式の案内表示は、地域が変わっても同じルールで使えることを重視します。一方、手製サインには、その場所を利用する人々の生活に根ざした情報が含まれている場合があります。
どちらが優れているという話ではありません。統一された案内に必要な情報と、地域ごとに必要な情報が、必ずしも一致していないということです。
デザインが綺麗なのに使いにくい、という矛盾

デザイナーが案内表示を制作するとき、文字のサイズやコントラスト、余白、整列、情報の優先順位などを検討します。
どれも重要な判断です。しかし、どれほど美しく整理されたサインでも、利用者が探している情報そのものが載っていなければ役に立ちません。
逆に、見た目が不格好でも、必要な場所に必要な情報が掲載されていれば、利用者を助けられることがあります。この違いは、情報の見せ方と、情報の選び方の違いともいえます。
- 前者
- 文字や配置をどう整理するかという問題です
- 後者
- そもそも何を伝える必要があるのかという問題
デザインの仕事では、前者に意識が向きやすいものです。既に用意された原稿や情報を渡され、それを読みやすく、美しく配置する。もちろん、その仕事にも専門性があります。
ただ、情報の内容や掲載場所が間違っていれば、いくらレイアウトを改善しても限界があります。
Webサイトで考えても同じです。綺麗なメニューを作っても、利用者が探しているページにたどり着けなければ意味がありません。洗練された問い合わせフォームでも、そもそも問い合わせ先が見つけられなければ使われません。
見た目の完成度と、利用者の問題を解決できているかどうかは、別々に考える必要があります。
手作りポスターは、改善すべき問題を教えてくれる
ここからもう一歩踏み込むと、手製サインには別の価値があるように思えます。それは、公式のデザインに何が不足しているのかを教えてくれることです。
たとえば、ある駅で「この先にトイレがあります」という紙の案内が何枚も追加されているなら、既存のサインではトイレの場所を伝えきれていないのかもしれません。同じ場所で何度も迷う人がいるなら、その分岐点に配置された情報が不足している可能性があります。
現場で追加された案内表示を、単なるデザインの乱れとして片付けてしまうのはもったいないことです。利用者の困りごとを記録した資料として活用できるからです。
具体的には、次のような運用が考えられます。
- 手製サインが必要になった理由を記録する
- 同じ質問や迷いが繰り返される場所を調べる
- 緊急時や一時的な案内には共通テンプレートを用意する
- 長期間必要な情報は、公式サインへの反映を検討する
- 地域固有の情報を掲載できる余地を残す
この考え方は、駅に限った話ではありません。商業施設、病院、学校、公共施設、展示会場。さまざまな場所で、公式の案内表示とは別に、職員による紙の注意書きが貼られています。
その紙がなぜ必要になったのかを調べれば、施設の使いにくさが見えてくることがあります。
「ダサいから消す」が正解とは限らない

もちろん、手製サインを無条件に肯定することはできません。複数の書体や強調表現が混在すれば、利用者が重要な情報を見分けにくくなる場合があります。
非常口や避難経路など、安全に関わる案内では、表現の統一や正確性が欠かせません。誤った方向を示してしまったり、公式の案内表示と矛盾したりする危険もあります。
だからこそ、デザイナーが関わる意味があります。
ただし、その仕事は紙の案内を美しく作り直すことだけではないはずです。
なぜ現場の職員が自分で案内を作らなければならなかったのか。その理由を調べ、公式システムに不足している部分を見つけることも、デザインの仕事です。
現場の職員はデザインの専門家ではないかもしれませんが、毎日利用者と接している専門家でもあります。その知識を無視して、見た目だけを整えてしまうと、以前より美しいのに、以前より使いにくい案内が完成することも考えられます。
優れたデザインは、見た目だけでは判断できない
シンガポールのMRTに貼られた紙の案内表示は、デザインの完成度という意味では決して理想的ではありません。それでも、現場が抱えている問題を補い、利用者が目的地へ向かう手助けをしています。
ここで考えたいのは、手製サインを残すべきか、すべて撤去すべきかという二択ではありません。統一されたデザインの強みを保ちながら、現場でしかわからない問題をどう取り込むかということです。
整ったサインを制作する能力と、利用者が本当に必要としている情報を見極める能力。優れた案内表示には、その両方が求められます。
見た目が綺麗であることは、デザインの大切な要素です。でも、完成した案内の隣に誰かが紙を貼り足さなければならないのなら、そこにはまだ改善できる余地があるのでしょう。
関連リンク
- It's Nice That|Design disasters or creative solutions? The self-made paper signs replacing wayfinding in Singapore’s railway stations
https://www.itsnicethat.com/articles/the-view-from-singapore-rmt-paper-signs-graphic-design-191026 - AIGA Eye on Design|One Designer’s Quest to Redesign Singapore’s Subway Signage
https://eyeondesign.aiga.org/one-designers-quest-to-redesign-singapores-subway-signage/